生活。

日々の営み

弥生

2011.3.11

 

誰もが忘れはしない

 

その日、私の中学校では卒業式があった。と言っても私は当時一年生で作られた花びらを持ち、一、二年生らで花道を作って体育館の外で待っているだけだった。自分たちの行事でもなく、準備や片付けやらで別にウキウキもワクワクも無かったことを覚えている。

 

式が終わり、いつもの仲良しメンバーとダラダラと帰路についていた。その日私は道端に捨てられていたエロ本を拾って持って帰った。「汚ねえ〜」「ええやん」と、そんな会話をしながら。

その日は友達三人が私の家にそのまま遊びに来ていた。当時はスマホが出だしたばかりでまだガラケーが主流だった。し、私の中学校では携帯電話自体を持つ学生は半分も居なかったように思う。「ケータイを持つのは高校生から」なんて家庭も少なくなかった。

 

友達と私の家に帰り、何をする訳でもなく寛ぎながら私たちは過ごしていた。すると母が部屋に訪れ

「なんか凄いことになってるよ」

それだけ告げてきた。

「なにが?」

まだうちはアナログでブラウン管のテレビだった。どこもかしこもニュース番組が流れ大きい地震があったと告げたいた。

私が住むのは沖縄で、記憶が正しければ唯一地震の揺れが無かったと思う。だから家に帰ってテレビを見るまでなんの情報も得られずそれを知ることは無かった。知った時も「まあ沖縄は地震そんなに無いし、向こうは大変だなあ」と、大して深く考えていなかったのだ。

けれど、東北で地震があったのにも関わらず、津波は沖縄にも到達していた。たったの50cmだけだったが、この距離のことを考えれば言うまでもない。

当時は何も知らなかった。まだ齢13の私には、何も。

 

普段やっているドラマ、バラエティ番組、音楽番組、そんなものは何一つ流れなかった。ニュース番組がただひたすら流れ、CMもAC JAPANのものばかり。当時、「ポポポポーン」というCMが流行った。嫌という程流れた。嫌という程流れたせいで「エーシー」とCMの最後に言うメロディが無音に変わっていた。

テレビで地震の映像、津波の映像が流れる。逃げて泣く私より幼い女の子。毎日増え続ける死傷者。13歳の私は繊細だったのか、それだけで何故か泣いてしまった。別に被害にあった訳では無いし親族がいた訳でも友達がいた訳でもない。けれども、数字で見ると、映像で見ると、それを目の当たりにしてしまうと、何も他人事のようには思えなかったのだ。

 

こんなことを言うと不謹慎だと思うけれど、私は何も分からなくて何も知らない。怖かったことも苦しかったことも分からない。それが、とてつもなく寂しく感じてしまう。共感できないことが、沖縄という土地で救われてしまったことが、すごくポツンと一人に感じてしまう。沖縄にいて何も分からなかった自分が、自分たちが、コイツらは、私たちは何も分かってない、ことの重要さも、痛みも、何も。そう思うととてつもなく寂しく、腹立たしく思えてしまう。

 

私に出来ることなんて何も無いんだけれど、想うことはさせて欲しい。