生活。

日々の営み

ダメな私を愛してくれるあなたへ

一年半前にブログをやめてきちんと文字を書くことを必然とやめていた。TwitterというSNSコンテンツで、それこそ必然と毎日毎日飽きもせず"文字"は書いていたのだが、それはたかが"文字"に過ぎない。もちろんこれも結局は文字の塊。羅列。Twitterの延長線上でしかなく、140字に囚われることなく延々と書けるようになったというだけなのだが。

兎にも角にもわたしはまた、文字というものを書こうというふうになった。やめた理由はまあ、諸々あるのだがそこは割愛させて頂く。

 

最近のわたしの日々について。

相も変わらずに希死念慮と隣り合わせで得体の知れない何かと闘っている。こいつは気付いたらそこに居て、いつの間にか私を襲う。覆うという方が正しいだろうか。包まれる、というととても優しい表現に思ってしまうのだが、虚無や焦燥感、マイナスという感情全てに包まれ覆われ飲み込まれてしまうのだ。

それは言葉に出来ないほど恐ろしい。事実、今言葉にしてはいるが、その襲われている時はただただ「つらい」という感情しかなく、言語化するにはあまりにも思考を奪われてしまう。

 

だが一年半前の私とは違い、最近はそこそこに元気だ。理由はいくつかある。

一つ、以前付き合っていた人と別れた。それは私の選択でそうした。が、自分から選択したというのに離れた直後わたしはとても崩れた。本当に死のうと思ったし、行動に移した。止められてしまったけど。でも今はちゃんと離れられて良かったと思うし死ななくて良かったと思う。

二つ、精神病院に再び通い始めた。ずっと行けてなかった。本当はきちんと通院しなければならない身であるのにわたしは鬱でそもそも動けず、約1年という期間動けなかった。だが今は薬を飲んで少しはマシになっている。恐らく。

そして三つ、多分これが大いに影響しているであろう。新しく恋人が出来た。今までに無かったのだが、これまで友人関係を続けていてそこから発展するというものだ。おそらく初めてのことだろう。友人が恋人になるというのはかなり違和感のあるもので、はっきりいって慣れない。自分も急に恋愛対象になるなんて思っていなかったのだから。 

新たな恋人が出来たことで昔の恋人を忘れる、などという典型的なパターンではあるがそのおかげで多少なりとも私の精神は安定した。前の人と違い、今の恋人はとても心に寄り添ってくれる。私が鬱に襲われ覆われようものなら、その上から覆いかぶさり包み込んでくれるような。大きく寛大である。実際大きい。 

そしてやはり思うのが、人に恵まれているということ。私がTwitterなどで「死にたい」など戯言を喚いても呆れることなく(いや私が認識していないだけで呆れてはいるのかもしれない)私のことを見守ってくれている人々。友人と言えようか。フォロワーと呼ぶにはそれを遥かに超越している。そして私はそれらに救われている。これは間違いない。今の恋人しかり、友人しかり、結局SNSがないとわたしは文字通り生きてこられなかった。生かされてきた。

生かされた、というと私が嫌々ながらそれを呑み込んできたという風にもみえるのだがそういう訳では無い。本当に生かされた、と思う。それはとても有難いことであり、救いである。と同時に大きなプレッシャーでもある。

「生きなきゃ」というプレッシャー。嫌とかダメとかそんなんじゃない。ただ、こんなにも恵まれているのにどうしようもなく死にたくなる日が来ると、本当に申し訳なくなってしまう。

「こんなんでごめんね。私のために色々してくれているのに。こんな価値のない人間に。」なんて思ってしまう。

自分を卑下することで他者を傷付けてしまうということは、もう何年も前から分かっているはずなのに、20半ばになっても尚、私はそれを治せずにいる。分かっててやってしまうからタチが悪い。でも今この場で感謝させて欲しい。

いつも支えてくれる皆、本当にありがとう。 

本当に自分はどうしようもないと思う。自分のダメさを家庭環境や過去のせいにしてばかりで今の自分と向き合わない。ダメだとわかっているのに進まない。向き合ってくれる人、支えてくれる人、優しい人らがいる中でそうしてただ駄々をこね蹲っているだけで何もしないのだから。だけれど、そんな自分にも皆は手を差し伸べてくれる。手を差し伸べずともただ「そばにいて」くれる。それだけで、何よりも何にも変えがたく喜ばしいことだと本当に思う。

そして自分はもう少し、ほんの少しでいいから自分自身を愛せるよう努力したい。

 

いつもの如く何を書いているのか分からなくなったが文字をツラツラと書くのは久々なのでやはり慣れない。だが最初はこんなものでしょう。きっと。

 

次は音楽の話でも。